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ヨハネの黙示録第1章:パトモス島でのある安息日



誰でも一度はエーゲ海に浮かぶ、青と白を基調としたギリシャのサントリーニ島の写真を見たことあるのではないでしょうか?

このブログを読むとわかること! 1. ヨハネが島流しにされたパトモス島のこと 2. ヨハネが幻を見た日 3. イエス様が常に教会と一緒にいてくださること😆



パトモス島


ギリシャと聞くと誰でもリゾートを思い浮かべるかもしれません。 黙示録を書いたヨハネは、サントリーニ島ではありませんでしたが、同じくエーゲ海に浮かぶパトモス島と呼ばれる島に島流しにされました。現在の人口は2500人ほどで面積は沖縄の石垣島の約7分の1ととても小さな島です。

あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。ヨハネの黙示録1章9節

パトモス島もやはりリゾートなのでしょうか?綺麗な青い海に浮かぶリゾートみたいな島。。。いえいえ残念ながらそうではありません。パトモス島はサントリーニ島と違い、岩だらけの島で、政治犯が追放される流刑地として利用されていました。 さて、ヨハネはなぜパトモス島へ島流しとなってしまったのでしょうか?多くの記録によると、ヨハネは福音に忠実であったためにパトモス島へ島流しにされた、とあります。

ある主の日


流刑生活を送るヨハネは、とある日に幻を見ました。聖書にはこう書いてあります。

ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。ヨハネの黙示録1章10節

 

前書きとして、世界的に一番人気(?)な主の日の解釈は週の最初の日、日曜日です。その中心的な理由としては、日曜日に礼拝をする教会の指導者たちが日曜日のことを主の日(dominus dies)と呼んだことによります。しかしながら、残念なことにこの日曜日を主の日だとサポートする聖句はありません。 わたしたちは、常に聖書を読むときの解釈、考えは聖書から出てくるべきです。聖書にこのように書いてあります。

聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。 なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。ペテロの第二の手紙1章20、21節

ですので、ぜひ一緒に聖書を開いて、主の日がいつの日か考えてみましょう!😆😆 ※※このブログは、特定の宗教団体を批判するために作られているものでは決してありません。土曜日・日曜日の問題で喧嘩するのではなく、それをきっかけに祈ることと聖書を読む機会を一人一人が得れたらと思います。(神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネによる福音書3章16節) では早速、「主の日」について調べてみましょう! 「主の日」、英語では"the Lord's Day"、そしてギリシャ語では"kuriake hemera"となります。この言葉、新約聖書では黙示録1章10節でしか使われていません。また、ギリシャ語約の旧約聖書(もとはヘブライ語)の中にもこの言葉と全く同じ言葉は出てきません。 しかし、言葉には語源(root)というものがあります。では"kuriake hemera"の語源を探ってみましょう。 出エジプト記と民数記にはこのように書いてあります。

七日目はあなたの神、主の[kurio]安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。出エジプト記20章10節]
七日目はあなたの神、主の[kurio]安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたも、あなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、牛、ろば、もろもろの家畜も、あなたの門のうちにおる他国の人も同じである。こうしてあなたのしもべ、はしためを、あなたと同じように休ませなければならない。民数記5章14節

この神である主[kurio]は聖書の中で、度々七日目をわたしの[主の]安息日[ta sabbata mou]と呼んでいます。

参考聖句: 出エジプト記31:12,13 レビ記19:3,30 レビ記26:2 イザヤ書56:4-6 エゼキエル書20:12, 13, 16, 20, 21, 24 エゼキエル書22:3-8 エゼキエル書23:36-38 エゼキエル書44:12-24



ヘブライ語約でイザヤ書を読むと、このようなことが書かれています。

もし安息日にあなたの足をとどめ、 わが聖日にあなたの楽しみをなさず、 安息日を喜びの日と呼び、 主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、 これを尊んで、おのが道を行わず、 おのが楽しみを求めず、 むなしい言葉を語らないならば、イザヤ書58章13節

神様は、確かに安息日を「わが聖日」と言われています。 では、イエス様はなんと言っているでしょうか?

人の子は安息日の主である。マタイによる福音書12章8節
また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」。 マルコによる福音書2章27、28節
また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。ルカによる福音書6章5節

 

このように、イエス様もまた「人の子は安息日の主」[kurios tou sabbatou]であると言われました。 このように聖書を読んでみてわかることは、主の日というのは七日目の安息日[土曜日]を指しているということです。こうしてみると、もしヨハネが突然「主の日」という言葉を別の曜日を指すために使ったと推測するのは難しいことがわかります。ヨハネは安息日[土曜日]にイエス様と出会われたのです!😆

ヨハネ、イエス様を見る


ヨハネは安息日にラッパのような大きな声を聞き、人の子のようなものを見ました(黙示録1章12−20節、ダニエル書7章9、10節参照)。イエス様です!ヨハネはイエス様を見たときに、死人のようになり倒れてしまいました。 倒れたヨハネの上に、イエス様は右手をおいて言われました。

わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。ヨハネの黙示録1章17−19節

なんという感動的なシーンでしょう!イエス様がヨハネにふれて「恐れるな」、と言われたのです! また、イエス様は自分が永遠の存在であり、生と死のすべてを支配されてることを教えてくださったのです。 「現在のこと、今後起ころうとすること」を、まさにイエス様がヨハネに見せようとする瞬間でした。そして、聖書は続きます。

あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。ヨハネの黙示録1章20節

イエス様は、右手に七つの教会の御使を持っておられ、また七つの教会の間におられます。イエス様は、七つの教会のことをとてもよく知っておられます(ヨハネの黙示録2章2、9、13、19節;3章1、8、15節参照)。 また、イエス様は七つの教会にそれぞれ違った方法で御自分の事を紹介されました(ヨハネの黙示録2章1、8、12、18節;3章1、7、14節参照)。 このことからわたしたちは、イエス様がどんな教会の状況と必要にも答えることができる方であることがわかります。別の言い方をすれば、イエス様はそれぞれの教会に対して、そのままの状態で出会われるということです。 そして、七つの教会のどの教会もイエス様の全体の姿を示されませんでした。このことは、わたしたちが常に聖書のこと、そしてイエス様のことを学ぶ立場にあり、謙遜であるべきであることを教えてくれます。

おわりに


ヨハネの黙示録1章には、ヨハネがイエス様といつどこで出会われたのか、イエス様がどのような方だったのか、そしてそれぞれの教会と共にいてくださっていることなど、ここでは書ききれない色々な大切な学びがあります。 みなさまも是非、神様にお祈りして聖霊の導きを求めつつ聖書を開いてみてください。このブログにも、人にも答えはありません。答えは神様が与えてくださいます😆

まとめ 1. ヨハネはエーゲ海に浮かぶ小さい島、パトモス島に島流しにされていた 2. ヨハネは幻を安息日[土曜日]に見た 3. イエス様が常に教会と一緒にいてくださる😆

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